自己紹介/私が再生・再構築事業を行う理由


マイナスからのスタート

私は1962年東京の下町千住にて、クリーニング業を営む両親のもとに生まれました。

学業を終え、その後2年間の修行も終えた85年に父親が経営する有限会社喜久屋クリーニングセンター(現・株式会社喜久屋)に入社しました。

工場の下働きから始めて技術を学び数年後には工場長に就任し、生産性や品質の向上・納期の短縮や安定等を課題として取り組んでいましたが思うように成果を上げられず悩んでいました。しかし、その頃たまたま「トヨタ生産方式」と出会い、一心不乱に学び実践した結果、現場の様々な課題が次々と改善されて行き、当時は「まるで魔法のような仕組みだ」と感激したことをよく覚えています。

そして、私が取り組んだ「トヨタ生産方式」による現場改善の実績は、その後私の経営者人生に大きく影響することとなりました。

92年に工場勤務を終えて専務取締役(29歳)に就任し、その6年後の98年(35歳)の時に代表取締役の任に就きましたが、社長就任には先代からの多額な債務を承継することが必須条件でした。若い私は「そんなもの直ぐに返済してやる!」と、意気揚々と周囲に話していました。

ところが、社長就任半年後の12月に突然想定外の出来事が起きました。現在の本社工場が機械不良を原因とした火災により全焼してしまったのです。幸いにも亡くなられた方や重篤者は出ませんでしたが、工場の再建に際しては地域住民による反対運動が起き、再建計画が頓挫する可能性が高まりました。私は、地域や近隣の皆様へ事故原因や今後の事故防止に関する具体策などの説明を誠心誠意行いましたところ、当初とは正反対に、地域や近隣の皆様から「厳しい時代だけど頑張って再建してください」という多くの声援をいただけるようにまでなり、無事に工場の再建を果たすことができました。

工場の再建はできましたが、事業承継時の債務に今回の火災事故での損害額が加わり、正に前途多難な社長業(苦行)の始まりとなりました。

 

逆境に感謝、常にチャレンジ

「大ピンチこそ最大のチャンス!」「転んでも絶対にタダでは起きない」「逆境こそ成長における絶好の機会、感謝!」という経営信条を胸に、その後「クリーニング&無料保管」、「衣類のお直し」、「無料保管宅配クリーニングe-closet(イークローゼット)」、全国にあるマンション内でのクリーニングサービス「フロント・コンシェルジュ・サポート」などを次々に展開していきました。

しかしながらクリーニング需要は右肩下がりのトレンドが加速していく中、リーマンショックや東日本大震災などの出来事がクリーニング業界、そして喜久屋自体も脅かしました。

そのような中、「座して死を待つのは御免だ。たとえ嵐の中でも一歩ずつ前へ進む方が自分らしい」と強く思い、最盛期の1/3以下に縮小していた市場に対して「最新のトレンドを武器」に抗うことを決意して「宅配クリーニング・リアクア」を事業化し(後に「第一回日本サービス大賞優秀賞」を受賞)、また、東南アジアのタイ・バンコクでのクリーニングサービスである「キクヤタイランド」の設立などを行いました。

これまでずっともがき、抗い続けてきた私は、気づけば様々な知見と経験を手にしていました。その「産物」は何故か様々な方面より評価をいただき、全国の大学や教育機関での講演、世界70カ国以上の企業や団体からの見学者受入れ等に繋がり、同時に、サービスモデル開発手法やトヨタ生産方式を用いた同業他社や異業種の改善支援などにも取り組む機会を多くいただきました。

そのようなことから、ある時を境に市場の縮小とは逆に売上は徐々に伸びて行きました。しかしながら事業承継時からの債務が大きく、また、その債務を無くすために行なった様々な事業投資もありましたので財務の抜本的な改善にまでは至りませんでした。

そして遂に「その日」がやって来ました。

 

その日

コロナ禍による経営への打撃は計り知れないものでした。売上の大幅な減少や不測の事態において社内のコンセンサスが得られない等により、正に経営トップとしては耐えがたく辛い状況でした。渦中の資金調達は様々な制度を活用してどうにか賄っていましたが、全く先の見えない状況に対しては生きた心地がしませんでした。

当時の喜久屋は社会保険料の猶予制度を活用しましたが、納付猶予期間が終了してこれまで通りの納付に切り替わったことにより、過去の猶予分と新たな発生分の両方を納付しなくてはならなくなり、さすがに一括での納付は無理なので社会保険事務所へ何度も通い、納付計画書の作成と定例の報告などを条件にどうにか分納でお許しをいただくこととなりました。

猛威を振るったコロナ禍は霧が晴れるように明けましたが、在宅勤務の増加や外出機会の減少などによりクリーニング業界にはコロナ後も影響が残り、以前のような売上には戻らず全社一丸となって必死に打開策を模索していましたが、一筋縄ではいかないどころか正に未知との遭遇であり、思いつくこと全てに着手しました。(ジッとしてはいられませんでした)

 

経営理念「喜久屋でよかった」

2025年の年が明け、いよいよ資金が底をつくことが確実になって参りました。

もしもここで経営が破綻すると、既にお客様から保管品としてお預かりしている数万着の季節衣類がお返しできなくなる。また、年末に販売したクリーニングチケットの払い戻しができなくなる。もしそうなれば周囲からの信頼を裏切ると共に「事件」になる…などの恐怖感に苛まれ、私の精神は崩壊寸前でした。(成人式に予約していた晴れ着を渡せずに倒産した会社のことが脳裏をよぎりました)

しかし、ここで奇跡的なことが起きたのです。半年ほど前にメインバンクから改めて経営改善計画書を作成するようにいわれ、中小企業活性化協議会(政府系の支援機構)を紹介されたことがきっかけでした。

ある日、協議会の担当者の方から「中畠さん、まだ万策尽きてはいませんよ」という連絡をいただきました。私は藁をも掴む心境でしたので直ぐに伺いその話しを聞いたところ「スポンサー企業による会社の吸収分割スキーム」という方法があるとのことでした。

詳細は割愛しますが、要するにスポンサーとなる企業を募集して新会社を設立し、喜久屋の良い所(黒字事業、人材、ノウハウやブランド等)だけを新会社に移し替えて旧会社は清算するスキームです。

ですが、それにより従業員や取次店舗オーナーの生活、お客様からお預かりしている衣類と販売したチケット、これまでお世話になってきた取引先が守られるのであればその一択しかないと考え、直ぐにお願いをしました。

その後、多少の紆余曲折がありましたが、無事にスポンサーも付き、2025年10月10日に事業が新会社に譲渡され現在では新しい社長や取締役のもと、これまで通りに業務が行われています。私は分割された旧会社の社長として今後は清算業務などに関わって参ります。

今回の経営判断は本当に一世一代の決断でしたが、経営者としての責任を経営理念である「喜久屋でよかった」の名の下に、皆様の協力を得てどうにか果たすことができ素直に嬉しく思いました。

 

無形の財産

会社の吸収分割もひと段落し、私自身のこの先の人生を考えたところ、「今回の経験を活かして困窮する中小企業の役に立ちたい」という想いが湧いてきました。もともと、引退したらこれまでの知見や経験を活用して、人や地域の役に立つ仕事をしたいと考えておりましたので、それはある意味自然な発想でした。そして今回の大きな経験こそが、経営の舵取りに悩む当事者にとっては非常に役に立つ貴重なものであると強く認識をいたしました。

多大な債務があった中での事業承継・工場の火災事故での住民との関係性構築・トヨタ生産方式による様々な改善・唯一無二の新しいサービスモデルの開発・コロナ禍という極限状態での経営の舵取り・そして会社の吸収分割スキームを使っての社員と事業の保全・永きに亘る事業活動を通じて得た友人など…全ての事柄は私の「無形の財産」であると思います。

これまで、従業員や会社に係る関係者の方々、家族や友人など多くの支援者のお陰により社長として27年間どうにかここまで歩んでくることができました。

今後は、その方たちへの恩返しの意味も含め、困窮する中小企業経営者とそのご家族や従業員の皆様のために、知見や経験や人脈という「無形の財産」を存分に活用して参りたいと思います。

 


プロフィール

  • 中畠信一(なかはたしんいち)
  • 昭和37年東京生まれ(O型) 
  • 人生及び経営のモットー/「三方善し/善を創造し、周囲へ提供し、結果として企業の永続及び発展を目指す」

現職

  • 中小企業再生・再構築アドバイザリーサービス「パートナーズ・オフィス中畠」代表
  • 株式会社喜久屋顧問